∧終末の(うた)




-プロローグ-
 
 深い闇が眼下に広がっている。少し肌寒い外気が容赦無く吹きつけ、広がる深遠へと私を誘う。私は今、自らの命を絶とうとしていた。

 理由などと言うものは特にない。どうしてもと言うならばそれは親との軋轢であったり、受験のプレッシャーであったり、些細な人間関係で気を使うのが嫌になったりと幾つか挙げることができるだろう・・。しかし、それらを含めた世界に対する漠然とした不安のようなもやもやとした言いようのない感情が、たった今私の生を終わらそうとしているのかもしれない。

 でも、そんなものは理由には成りえない事を私はこうしてここに立ち理解した。

 人は死を望むのだ・・。いつだって自分の生を消し去ることを心の奥底では望んでいる。緩慢で苦痛に満ちた生を捨てさり、自由になることを・・。

 強い突風が吹いた。身体の奥まで浸透してくるような心地よい死の甘美に身を委ねながら私は深い闇へと落ちていった。そして永遠となる刹那、私は見た。

 私の傍らにもう一人の私が居て、静かに微笑むのを・・。

 ああ、それは私のそう長くなかった生の中で最も透明で、最も満ち足りた微笑だった。
 
 
 

第一話 終末は何気なく訪れる

-1-

 それ自体はよくあるささやかな出来事だった。湿っぽい空気に包まれた教室、ちょうど窓側の最後尾の席、そこだけ隔絶されたような空間には白い花束が供えられている。
 つい先日、自殺した女子の席だ。彼女が自殺した理由は不明。おそらくいじめを苦にとかいった理由ではないように思う。この高校は県内で一、二を争う進学校だ。受験が間近にせまった忙しい時期に他人にちょっかいを出すほど余裕のある人間はそういないだろう。彼女は家庭内に色々と問題を抱え込んでいたらしく、おそらく自殺の原因もそちらであろうと推察された。
 効果の薄い教師達の釈明と他人の不幸を飯のタネにしているマスコミの無責任な憶測でしばらくの間校内は騒然としていたが、ともかくほとんど話したことすらない自分には関係のない話、その時はそう思っていた・・・。

 「であるからして、この設問の答えはこうなる・・」

 あいかわらず教師がマニュアル通りの答えを黒板に書き連ねる。それを必死でノートに書留めようとする生徒達、受験直前の教室のありふれた光景がそこにはある。誰が死のうとこの光景はいつまでも変わらないのだろう・・。
 視界の端には黒板上に所せましと並べ綴られた文字列が浮かんでいる。鼻孔には教室の乾いた埃っぽい匂いが、耳にはノートに文字を書き込んだり、シャーペンを鳴らしたりとせわしない微かな音の群が入ってくる。どこで何が起ころうともこの教室という空間の雰囲気が変わることはない。固定化した観念の象徴みたいな場所。この世界はこんなふうに感じる場所があまりにも多い。
 僕はそんな教室の雰囲気に眠気を誘われ、いつもの如く昼寝モードに入ろうとした。この席はちょうど教卓からは見えにくい位置にある。昼寝には都合のいい場所だ。
 窓の外に視線を移すと閑散とした味気ない都市の風景が映し出されている。すでに都市の景観は僕の一番古い記憶に残っている景色とは全く違ったものになっていて、幼い頃、僕の見ていた素朴だが暖かく美しい世界はいつの間にか消えてしまい、街はいつのまにか無機質で不気味な都市へと変貌をとげていた。時は常に過去から未来へと連動しており、留まることはない。
 これは感傷だろうか?ぼんやりと今この瞬間も少しずつ移り変わっていく風景を眺めながら僕の意識は夢の世界へと突入し始めた。まどろみが現実の風景と夢との境界線を曖昧にさせ、思考が麻痺しはじめる。視界に映る都市の風景が徐々にフェードアウトしていくにつれ、意識は夢の世界へと溶けていく。僕はせめて夢の中ぐらいは懐かしい風景をと願いながら眠りにつこうとした。
 
 だが僕が夢の世界へと突入しようとするまさにその時、ぼんやり空に向けた瞳へと不意に微かな光が入り込み僕の眠りを妨げた 。一瞬、光が目に射し込んだのかと思ったが、この季節のこの時刻、ちょうど柱の影になっている僕の席に日光が射し込むことはまずない。
 僕は窓の外の視界にその光源を探し求めた。そしてこの教室から直線距離にして約50メートルぐらいの空間に奇妙な発光体が浮かんでいるのを見つけたのである。
 
 青い空、晴れた昼下がり、どうってことのない普通の景色の中に明らかに異常なその物体は何故かとけ込んで見える。距離感と光量を考えれば人間くらいの大きさだろうか。僕は好奇心の赴くままにそいつを観察した。ふらふらと頼りなく宙を舞うそいつはまるでたんぽぽの綿毛のようだ。不思議な淡い光を放ちながら周辺を行ったり来たりしているその様子は僕に帰る場所を探している幼子を連想させた。
 僕はその光を食い入るように凝視し続けた。そうして、じっと観察するうちに光の中心に黒っぽい人影らしきものが浮かんでいるのに気付く。その影は明滅を繰り返し、心なしかその度に光が強くなって行くようにも思える。

(あの影は何だ?まるで人のような形をしてる・・。だがそれにしても・・綺麗だ・・)

 目に映しだされた光景はあまりにも美しかった。それは単に視覚的な美しさのみならず、母親の胎内を連想させる回帰的な心地よさと浮揚感を見る者に与えずにはおかない、まるで感覚を蕩かすような異様な美・・。僕はそのまばゆい輝きに魅せられながらさらに光を見極めようと目を細めた。しかし、目を細めた次の瞬間、いきなり光は急速に膨張し・・、弾けた。
 刹那、全身に痛みにも似た得も言われぬ奇妙な感覚が走り抜け、同時に頭の中に様々な映像が浮かび上がり、すさまじいスピードで拡がっていった。それはまるで上空数千メートルの高さから自由落下するような快感と恐怖が入り交じった感覚で、僕の脳には次々とどこか懐かしい情景や記憶が映し出されては消え、消えてはまた映し出されて・・。そのあまりにもめまぐるしい変化に意識はついて行けず、僕は嵐のように通り過ぎていく映像の奔流をただ呆然と眺めるだけで・・。
 映像の断片が次々と形を変えながら目まぐるしく世界を回っている。空間は光と闇で満たされ僕という希薄な存在は今にも消えてしまいそうだった。
 必死に何かにすがりついた。それは他愛もない日常の記憶だったり、好きな人の顔だったりしたが、とにかく僕を構成する曖昧な記憶が僕を救ったのだろう。気が付けばあの奇妙な感覚の波は無くなっていた。
 
 永遠にも思えた時間は実際にはゼロコンマ何秒かの世界だったのだろう・・。僕が意識を取り戻したとき、光はすでに消えており、その空間にはただ軽やかな秋の青空が広がっている。 


「真丈、真丈幸人」

 あまりに圧倒的な光景に呆然としていた僕の意識はいきなり教室の中へと引き戻された。

「はい?」

 教師の方をむき、我ながら間の抜けた返事をかえす。

「聞いてなかったのかね。テキストの63ページだ」

 あきれた声で教師は指摘した。半ば停止した思考のまま言われるがままページをめくるとそこには長ったらしい設問が用意されている。意識をまだ外の不思議な光景に残していた僕は少しだけ考え込んでもっとも手っ取り早い答えを述べることにした。

「わかりません」

 そうしてその場を逃れると外に視線を戻す。空は光の痕跡すら残さずただいつものように青く晴れわたっている。

(いったい、あれは・・)

 教師から嫌な顔をされたが、そんなことはどうでもいい。好奇心と期待感がだんだん胸の中で膨らんでいくのがわかる。こんな感覚は久しぶりだった。たいくつな授業、決められたカリキュラムに沿って動いていく一日。そんな中で自動人形のようにただ盲目的に従い続けることは僕にとって耐え難い苦痛でしかない。いつしか僕はこの退屈な生活に価値を見いだすことができず、何事にも心を動かされぬまま単調な変化のない日常の中、ただ惰性に身を任せ生きるようになっていた。しかし、今、目の前で見た光景は僕の中で眠っていた感情を呼び覚まし、僕を在るべき方向へ導くきっかけとなるかもしれない。そう思えた。僕はこの唐突に訪れた出来事にひどく興奮し、沸き上がる感情の赴くまま行動に移った。

「すいません」

 僕はおもむろに手を挙げた。教師は何度も熱の入ってきた(と思い込んでいる)授業に水をさされ、不満気な表情でこちらの方を向く。

「気分が悪いんで少し休ませて下さい」

 教師は不快を通り越して明らかに怒りの表情を浮かべていたが、邪魔者は教室の外に追い出した方がよいと判断したのだろう。数秒の間を置いて保健委を呼んだ。

「はい!」

 元気な声とともに保健委の吉野優が立ちあがる。

「真丈を保健室まで連れていってあげなさい」

「はーい。わっかりましたー」

 不真面目な声に教師は眉をひそめるが、吉野は気にせずに僕の前まで来ると手をさしのべた。彼女の身長は僕より頭二つ分ぐらい低めなので、手をさしのべられるとまるで子供から菓子をねだられているような気分になる。
 仮病を使って授業を抜け出そうとしてることくらい理解しているだろうに、彼女のことだ恐らく僕を利用して自分もサボろうとしているのだろう。こんな奴に邪魔されちゃかなわない。僕は立ち上がると吉野に目で拒絶の意志を伝え、ドアの方まで歩きかけた。

「じゃ、行こっか」

 しかし、吉野はまったく気付かないふりをして僕の手を取るとさっさと歩き出した。一人で大丈夫だ、そう言いかけたのだが、吉野の瞳がいたずらっぽく輝いているのを見てしまった僕はその言葉を飲み込んだ。この瞳の吉野に逆らってろくな目にあった試しがない・・。教師や周りの視線を感じながら僕等はそろって教室を抜け出した。


 -2-
 
 視界が切り替わると、息の詰まるあの嫌な感覚が消え、代わりに奇妙なほど浮ついた高揚感に支配されていた。
 さっきの光はいったい何だったのだろう? 白昼夢にしちゃあまりにもリアルすぎる。だが、現実感はいっこうに湧いてこない。普通、夢というものは夢を見ている間は現実となんら変わりがない世界として認識されるものだ。まれに夢の中で、そいつを夢だと認識できる種の人もいるらしいが、少なくとも僕は夢を見ている間はその世界こそが現実であり、総てであると認識する。本当の現実世界ではあり得ないとされることでも、夢の中にいる間は当たり前の出来事に捉えてしまうのだ。
 吉野は僕の目の前をちょこちょこと歩いていく。時折、僕がちゃんと着いてきているかどうか確認しながら小走りで前を行く。
 こいつはいつもこんな感じだ。訊ねたことなどないが、身長は150センチには届いてないだろう。どこからみても高三には見えない。良いとこ中学生だ。へたすると小学生に間違えられる。
 しかし、この童顔の少女は何故か同姓、異性を問わず人気がある。おそらく、この高校でこいつを知らない人間はいないんじゃないだろうか。同学年はもちろんのこと下級生たちにも受けが良いらしく、しょっちゅう相談事とかを持ち込まれるようだ。告白されたことも一度や二度ではない。よく近くにいるという理由で伝言を頼まれたり、携帯の番号を聞かれたりする。まったく持って迷惑な話だ。
 基本的に人付き合いの悪い僕は友人と呼べるような人間は片手で数えるほどしかいない。それにしたって親友と呼べるほどの付き合いもなく、極々浅いうすっぺらな関係でしかない。だがこの吉野だけは違った。家が近所同士だったということもあるだろうが、高校に入ってから三年間ほとんど毎日ように顔を合わせている。サボって校舎裏の丘で、寝転がって読書なんぞしているといつの間にかやって来て隣で寝ていたり、帰り一人で近所のゲーセンで戦っているといきなり割り込んできたり、とにかく僕が行く先々によく出現する奇妙な奴なのだ。そして、いつの頃からか吉野が近くにいることは僕にとってごく自然なことになっていた。
 だがしかし、吉野に『光』のことを話せば絶対自分も連れて行けと言うだろうし、その場合、次の日には学校中にその話が広がっているだろうことは容易に想像できる・・。僕は意を決した。

「ユーキ!何ぼーっとしてんの?もしかして恋煩いとか?」
 
 前をトコトコといった感じで歩いていた吉野が百八十度回転して唐突に話かけてきた。しかも、いちいちポーズまで付けて大仰に僕を指差しながらだ。
 取りあえず無視して、吉野の傍らを通り過ぎる。今はこんなのに構ってる暇はないのだ。一刻も早く例の光を追わなければならない。表面には出さないが、内心はかなり焦っていた。退屈な日常へと変化を運んでくれるこの上ない刺激が今すぐ近くに有る。そう考えるだけで鼓動が高鳴ってくるのを感じる。

「ちょ、ちょっと待て、無視することないだろ。おい、ユーキ!」
 
 吉野は何事かほざいているが答える代わりに歩調を早めてやる。数歩だけ吉野に先行していた僕は素早く助走体制に移行、呆気にとられる吉野を尻目に疾走し始めた。

「おいっ!ちょっと、待てったら・・。こらユーキィィーーッ!」
 
 すでに吉野の声は後方に遠ざかっていく。追いかけてきたとしても無駄だろう。足の長さからして倍近く差があるのだ。吉野の運動神経の良さを考慮したとしてもこの距離ではまず追いつかれる心配はない。後々のことを考えるとちょっと空恐ろしい気はするが、この際仕方がない。
 悪いな吉野と心の内で呟きながら尚も疾走する。階段をワンフロア、ツーステップで駆け下り、そのまま校舎裏へ直行していく。そしてある程度来たところで一旦立ち止まり、光が落ちたはずの方角を見定める。
 カラッと晴れ上がった空の真下に一瞬あの光の幻影が手招きしているような錯覚を覚えた。僕は思わず笑みをもらし、光が落ちたはずの辺りまで移動し始めた。昼下がりの木漏れ日が木々の間から射してくる。この先に未知なる刺激が待ち受けている。胸の奥から湧いてくる期待感を沈めつつ、僕は小走りになって丘の斜面を駆け上がった。
 
 だがしかし、丘の上まで来ると辺りは何ひとつ変わった様子はなく、いつも昼寝にくるときと同様にサワサワと木々が揺れているだけだった。

「馬鹿な!!そんな訳ないだろうっ!!」

 僕は思わず大声で叫ぶと辺りを虱潰しに探し始める。
 こんな馬鹿な。あれだけの光量を発する物体が落ちたんだそれらしい痕跡ぐらいあるはずだ。木々の間、草むらの中、幹の間、光が落ちたはずの場所を中心に探しまくった。

「ない!ない、ない、無いっ!!」

 静寂に包まれた林に僕の叫び声が高く響いていく。三十分近く光が落ちた痕跡を探してみたが、それらしいものは何一つ見つからなかった。
 静まり返る木々や草花が僕を嘲笑っているような気がした。期待が大きかっただけに失望感は思った以上に深いようだった。僕はそのままがっくりと肩を落とすといつものように仰向けに寝転がり空を見上げた。
 空はいつもと変わり様もなくただ青く、僕の周りの世界は何一つ変化しちゃいない。道化になったような気分だ。化かされるっていうのはこういう気分なのかもしれない。我ながらなんて間の抜けた話だろう。
 
「くくっ、くくく・・」

 僕の口元からは自然に笑みがこぼれていた。授業さぼったり、吉野を播いたりして必死扱いて光を追ってきたものの見事に肩透かしをくらってしまった。ぼんやりと空を見上げるとゆっくりと風に運ばれて雲が流れていく。こうして寝転がって空を眺めているとさっきまでの自分がひどく滑稽に思えてくる。
 普通に考えればさっき見た光景はいわゆる白昼夢で自分の中の願望が見せたものだったのかもしれない。リアル過ぎると言えばリアル過ぎるがこんなものなんだろう。手足を伸ばしながら大きく欠伸を一つ。
 なんだか眠くなってきた。気が抜けたら睡魔が襲ってきたようだ。まあいい、このまま此処で寝よう。なんだか風も気持ちいいし、こうやって退屈な時を浪費するのも悪くない。僕は瞼を閉じると心地よい眠気に身を任せ、深い眠りへと堕ちていった。


 そいつを認識したのはいつからからだったろうか。人が可笑しいと笑う意味が僕には解らなかった。目の前で友人が昨日あったバラエティ番組の誰々がおもしろいとか誰々はつまらないとかあのアイドルは可愛いとけどちょっと天然入ってるとか、そんなたわいもない話をしては、笑い声を上げている。
 僕も一緒になって笑うが、可笑しいとは思わないし、理解できない。
「お前って、ホント感情の起伏がないよなー。」とある友人に言われたことがある。その友人は確かに僕の本質をある程度突いていると思う。しかし、よく勘違いされるが僕は感情がないわけではなく、僕の感情を揺るがすほどの事象があまり起こらないだけなのだ。
 大抵の事は予想できる範囲内で起きるものだし、予測不可能な出来事などそう多くはない。特に人間同士だと相手の行動パターンはだいたい決まってくる。誰がどういう風に考え、どのような行動に移すかはたいてい読める。例え予測とは少し違った結果が出たとしても本質的には何ら変わらないのだ。
 人は他人と相対する時、友好、信頼、拒絶、利用、服従、敬愛、等々幾つかのパターンで向き合う。それらをじっと観察していれば人が何を望み何を欲するかがよく見えてくる。後はその材料を片手に相手に対する対処方を考えればいい。そうすれば少なくとも敵は作らずに済む。僕は幼い頃からそうやって生きてきた。僕にとってそれは生きるための知恵などではなく、何となくやってしまう一種の癖みたいなものだった・・。
 
 世界がゆっくりと回っている。あの日、僕は薄暗い部屋の中に居た。
 曇り空にぽつぽつと降る雨がコンクリートを叩く音が聞こえる。家の中の仏壇には二つの写真が飾ってある。両親の写真だ。幼い僕は別に何をするでもなく、ただそいつを見つめる。何日前か忘れたが、二人共あっけなく死んだ。何かの事故に巻き込まれたらしいが、そんなことはどうでも良かった。悲しいという感情は勿論あったが、それ以上に全てが面倒に思えていた。全ての感情は機能することを忘れたかのようにただ僕の内側で凍結しているようだ。ぼーっと何をするでもなく、ただ暗い部屋で坐っているとドアを叩く音が聞こえてきた。何だろう?、僕はゆっくりとドアの方に視線を向けた。
 ドアが開き、光が射し込んでくる。眩しくて目を細めるとその隙間から黒いコートの影が見えた。

「幸人、大変だったな・・」

 最初の一声は確かそんな言葉だった。何が大変なのか暫く考えたのを覚えている。そうだ、上がり込んできた男は僕の叔父だと名乗り、今日から僕の面倒を見ると言った。何と答えたかは覚えていないが了承したのは確かだろう。僕は今その叔父の金で一人暮らしをしているのだから・・。

「あまり会いに来てはやれないが、何かあったら連絡しろよ・・」

 そう言って叔父は自分の連絡先を僕に教えた。日本と海外を飛び回る仕事をやっているらしく、一カ所に留まっていることはあまりないらしい。叔父は別れる際、寂しげな目で僕の方を見たが、それも僕にとってどうでもいいことだった。必要なことを告げ、出ていく叔父の背中がやけに遠くに霞んで見えた・・。

 薄く目を開けると中天にはすでに日が昇っている。大きく背伸びをして、欠伸をした。懐かしい夢を見たもんだ。
 頭を振ってゆっくりと天を仰ぐ。見慣れたはずの青い空が陰ったかと思うと、
 不意に・・、そう不意にそいつが現れた。

 その球体は微かに輝きを発していたがさっき見た時ほどの光量はなく、輝きは今にも消えてしまいそうだった。最初に見た時は人ひとりぐらいの大きさだったように思えたが、今目の前に浮かんでいるそれはちょうど僕の半分くらいの大きさしかない。
 僕は立ち上がり、手を伸ばした。警戒心が無かった訳ではないが、好奇心の方が勝ったのだ。
 光に触れた瞬間、何かが僕の体を走り抜けた。

∧・・て・・、下さい・・。・・って・・∨

 心に直接とでも言うのだろうか?僕の意識の中にその『声』は入ってきた。

「だ、誰だ?」

 目の前の光・・、と言ってもすでにその輝きはほとんど失われつつある物体に向かって、僕は反射的に誰何した。すると微かに残っていた光が消え、中からそいつが姿を現した・・。
 宙に漂っていたそいつは支えを無くしたようにそのまま地面落下する・・。慌てて受け止めた僕の両腕に温もりが伝わる。
 そう光の中に居た物体は人の姿をしていた。
 瞳を閉じたまま僕の腕の中で眠るようにして在る少女。
 まるで、神話や幻想の中からそのまま抜け出てきたかのように・・、それはひどく現実感を伴わない感触だった。
 少女・・、イメージとしてはそう呼ぶべきなのだろうか?
 まだあどけない顔立ちで、年の頃は十歳ぐらいに見える。ちょうど赤ん坊が丸くなるような姿勢で僕の腕の中に収まっているその少女は普通の人間とは多少、姿形が異なっていた。
 まず、肩辺りまで伸びている髪は発光しており、光の粒子如きものが周囲を舞っている。身体は人のそれだが、背中には羽根のような半透明の物体がくっついている。肌は透けるように白いというか実際、微かに透けていたりする。
 さらに着ている服は身体にぴったりと同化したように吸い付いていて、それも光加減で色が変わる奇妙な代物だった。
 少女は僕の腕の中に収まったまま目を開き、僕の顔を覗き込む。不思議な色彩の瞳が僕の瞳に映しだされる。

「あなた・・。誰・・ですか?」

 少女の口から疑問の声が投げかけられる。

「え・・、あ、幸人・・、新庄幸人・・。」

「何故、私を抱えているのですか?」
 
 少女は僕に抱えられたまま、再度疑問を口にした。

「い、いや・・。何故と言われても・・」
 
 口ごもる。何故僕は彼女を抱えているのだろう?彼女が光から現れて・・、それで・・。

「降ろして貰えます?」

「あ・・、はい・・」
 
 少女を地面に降ろす。ふわりと軽い足取りで地面に降り立った少女はこちらを見上げ、三度目の疑問を口にしてきた。

「此処・・、何処ですか?」
 
 取り敢えず、僕は頭を抱え、どう説明すべきか思案に暮れたのだった・・。

 
                                                  -3-

「なるほど・・、それはご迷惑をお掛けいたしました。私は意識を失っていたのですね・・」
 
 僕の方を見ながら少女は光加減によって色彩が変化する不思議な瞳を何度か瞬かせる。そうしていると普通の女の子のようだ。

「自己凍結モードに入っていたので、事故は避けられましたが・・」

 背中に生えている羽は何かのアクセサリーだろうか?それとも本当に身体に付いているのだろうか?

「私は長時間『飛ぶ』のに慣れてないので、空間の歪みを読み間違えたのでしょう・・」
 
 だが、この服はなんだ?衣類と呼んでいいものかどうか・・。もしかして、これは素肌で・・、と言うことはこの子は今、裸・・?

「あなたが聞いた声は凍結モード移行中の擬似人格といったところで・・、あの・・ 聞いてます?」

「え?あ、・・あぁ、何だっけ?」

「ですから、私がここに来た経緯について判りやすく説明して差し上げているんです!!人の話をちゃんと聞いて下さい!」
 
 実際の所、聞いたところで簡単に理解できそうな話でもなかったが、ともかく、僕は彼女の話を聞いてやることにした。

「ああ、ごめん、ごめん。ちゃんと聞くからさ・・」
 
 そう反射的に言うと少女はにっこり微笑んで小さく咳を一つし、「それでは・・」と口調を変えて、彼女が何故此処にこうしているのか、実に長い『講義』を始めたのだった。

「そもそも時空因子が配列レベルでの相対比率が低いことに問題があるのです。例えばαという因子配合パターンが存在するとして、その実に十の十乗分の一の可能性でしか、その配合パターンに組み合わせて使用出来るパターンが存在しないのです・・。ですから・・」
 
 馬耳東風、良い言葉だ。そう思ったのは少女が『講義』を始めてから十分ぐらい経ってからだった。確かに彼女は「わかりやすく」説明してくれているらしく、単語自体の意味はなんとなく判った。しかし、単語を組み合わせて彼女の口から発せられる言葉は僕にとってラテン語の読解よりも難しい代物だった。僕はいつの間にか耳の中を風が心地よく通り抜けていくのを感じていた・・。

「あの・・、ちょっといいかな・・」

「はい?」
 
 少女の延々と続く話を何とか強引に止める。僕が『講義』に口を挟むと

「何ですか?判らない事があったら何でもおっしゃって下さい」

とまるで生徒に質問された教師の如き口調で僕を促した。

「ええ・・っと、じゃあ・・」
 
 質問をしようとする僕を待ちかまえるようにして少女が見ている。その顔が嬉しそうだったので、何となく気が引けたが僕はハッキリと言った。

「君、誰?」と
 
 辺りに一瞬だけ、うすら寒い空気が流れた。少女の方も数秒の間を置いてから思い出したように僕の方を見上げた。少し顔が赤い。

「す、すいません・・。ちょっと話に夢中になりすぎる癖がありまして・・。えーと、そうですね・・、自己紹介がまだでした・・」
 
 少女は改めて僕の方に向き直り、コホンと咳払いを一つした。

「ラファエル第17小隊所属、エルス=ミレナ=ルフィードと申します。先ほどは危ない所を助けて頂き、誠にありがとうございました」
 
 そう言って深々と僕に頭を下げる。

「ああ、さっきも言ったけど俺は真丈幸人・・、幸人でいいよ・・。で、えーと・・、エルス・・さん?」

「私の方ももエルスで構いませんよ。ユキト・・。」

「じゃあ、エルス・・。再度質問なんだけど・・、君はいったい何者でどうしてここにいるんだ?極めて単純明瞭に判りやすく、的確かつ簡潔に教えてくれないか?」
 
 エルスと名乗った少女は僕の質問を聞いて少し考えるような素振りを見せる。少し額に皺をよせつつ、逆に尋ねてきた。

「先ほどの説明では不足でしたでしょうか?できる限り判りやすく詳細に説明したつもりでしたが・・、どうやら言葉が足りなかったようですね・・。解りました・・、今度はもう少し詳しくご説明申し上げます」

「ああ、ちょっと待って。えーと・・、ほら、その何だ・・、説明はいいからまず君が何者なのかを僕にもわかるように簡単に教えてよ・・、正直ちょっと困惑してるんだ・・」

 さっきのような長々しい『講義』をまた始められたのでは堪らない。僕の言葉にエルスは首を傾げ、こちらを見上げる。その様子が何となく拗ねた子供のように思えた。

「左様ですか・・、解りました・・。そうですね・・、あなた達の概念から連想されるイメージで最も近いのは・・、『天使』でしょうか・・。細部はかなり違うのですが・・、それが一番近い存在かと思われます」

「天使?」

「はい、そうです」

「天使って言うと、羽根が生えてて神様の使いとかするあの天使?」

「はい、此処で云う『神』というのは私達にとってある種のシステムのことなのですが・・、大まかな意味でいう神の御使いとしての天使のイメージで合っていると思いますよ、ユキト・・」

 そう言って微笑むエルスの笑顔はなるほど天使といわれても納得がいくかもしれない。それほど邪気のない無垢な笑顔だった。僕は改めて彼女の服装に目をやる。エルスの全身をピッタリと覆うウェットスーツのような服は光沢を帯び、時々、光の加減によってだろうか?色が常に変化しているように見える。
 最初、エルスを見たとき、一瞬裸に見えたのはこのスーツが肌の色に変化していたからのようだ。背中に付いている羽根は透明でそいつを通して向こうの景色が見える。形は鳥の羽に似ていて、今は畳んでいるようだが、広げればかなりの大きさになるだろう・・。

「なるほど・・、『天使』か・・。確かに云われてみるとそんな気もしないではない・・」

 僕はエルスを見下ろしながら小声で呟いた。昼下がりの午後、光を追って丘の上まで来てみると天使と出会いました・・、か・・。面白いが・・、今ひとつ現実感が伴わない。これは夢じゃないのか?という疑念が頭を過ぎる。

(まあ、いいか・・、夢なら夢で・・)

 退屈な日々に飽きていた僕にはこの上なく堪らない刺激だ。今目の前にある不可思議な現象は僕の日常では決して味わえない種の出来事だろう。自然と浮かんでくる笑みを止めることが出来ない

「どうしたのですか?ユキト?」

 声でハッと我に返ると下から覗き込むようにして僕の顔をエルスが見ていた。どうやら少し考え込んでいたらしい。僕の悪癖で考え込むと周りが見えなくなるのだ。最もこの悪癖はふだん上手く隠しており、知っているのは吉野ぐらいなのだが・・。

「それで、ここに来た理由なんだけど・・、天使ってことはやっぱり神様から使命なんか受けてきたとか?」

「はい、そうです。実はちょっと困ったことが起きてしまいまして・・」

「困ったこと?」

「ええ、先日判明したことなのですが・・」

 エルスは少し迷ったように顔を背けたり、下を向いたりしていたが、やがて意を決したように僕を見上げた。そして告げる。

「このままだとこの時空はあと三日で消えてしまうのです・・」

「へぇー、この時空が・・、って・・」

 僕が少し驚いた表情を見せるとエルスは申し訳なさそうに呟いた。

「はい、あと三日でこの世界に終末が訪れます・・」 

 いつもと変わらない晴れ渡った空の下で、告げられたのはひどく衝撃的な内容だった。しかし、それはあまりに実感の伴わない感覚で、僕は自分でも驚くほど醒めた気持ちだった。
 世界が終わるという彼女の言に僕は何の感慨も抱いていない。エルスの言葉を信じていない訳ではなく、ただなんと言うか僕の中ですでにそれは完結してしまっているのだ・・。
そう・・、世界が終わろうとどうしようと僕には関係ない。僕自身が描いている。或いは描こうとしていた世界など存在しないのだがら・・。
 「明日、世界が終わる」と告げられても別にああ、そうなんだ・・。終わるのか・・。ぐらいのふざけた感想しか浮かんでこない。実際の所どうなんだろうか?多分、僕のように感じる人間は少ないのだろうが・・。

「そうなのか・・。で、どういう風にしてその終末ってやつは訪れるんだい?」

「あまり、驚かれないのですね?」

 エルスは不思議そうに首を傾げる。

「いや、驚いてどうにかなるなるものでもないでしょ?」

 淡々と話す僕を不思議な色合いの瞳で見つめるエルス。

「そうですか・・、今までこのような話をした場合、ほとんどの方が全く信じようとしないか非常に取り乱されるかのどちらかでした・・。ユキトみたいな反応をした人は居ませんでしたから・・。そうですね・・、じゃあ、まずはこれを見てください」

 エルスはそう言うと小さな拳大の球体を取り出した。見た所、入れ物を持っているようには見えないので、何処から取り出したのかと不思議に思っていると、突然そいつが輝き始める。

「これはっ!!近くにいる!?」

 エルスが叫ぶ。そして輝き始めたその球体はだんだんとその光を強めていく。

(これがあの時の光か・・)

 この輝きはまさしく僕がここまで追いかけてきたあの光だった。凍りついていた感情が解けるように胸の奥から鼓動が湧き上がっていくる。
 球体が発する光はだんだんと強くなっていき、やがて僕とエルスを包み込む。
 次の瞬間、僕の意識は校舎から光を見た時に味わったあの不可思議な感覚の奔流の只中に居た。また、いくつもの情景や記憶の断片が目まぐるしく回っている。あの時と違うのは傍らに羽根を広げた『天使』がいることだ。
 エルスはその美しい羽根で僕を包み込むと申し訳なさそうな表情でそっと僕の額に触れた。そしてエルスの小さな体はだんだんと光の粒子へとその姿を変えていく・・。

「すいません、あなたに決めました・・」

 そうエルスが呟いたのを最後に僕の意識は途切れた・・。