∧黄昏の神話∨ 


    〜微かな痛みと夢の扉〜




― Prologue ―

 目覚めてからすぐ世界はまるで薄い靄が懸かったかのように瞳に映る。それはまどろみから目覚めた時、おそらく誰もが最初に感じるであろう不確かな世界だ・・・。
 確かにその景色は現実だけど何処か夢の記憶を重ねている。
 完全に目が覚めてしまうと失くしてしまう夢の景色が、ただその一瞬だけ現実の景色と交差する。

 僕は思う。
 世界はいつも薄いグレーがかかったような色をしていて、それは酷く味気ない。だから人には夢が必要なのだと・・・・、色褪せた灰色の風景に人は夢という名の想いを乗せて色をつけていくのだ・・・。

 それがどんなに虚飾に満ちていたとしても人は描き続ける。
 いつかきっと灰色のキャンパスに色鮮やかな自分を描けると信じて・・・。




ーOneー

 虚構が織り成す輪舞がゆっくりと世界を侵食していく。
 私の心が壊れてからどのくらいの時間がたっただろう・・・。
 部屋の中ではいつ終わるとも知れない軽快なミュージックが繰り返しリピートされ続けている。
 暗い部屋につけっぱなしのTVからニュースが流れる。なんでもまたテロリストが中東あたりで爆破事件を起こしたらしい。
 遠い国の遠い事件だ・・・。私にはどうでもいい・・・。
 身体に力が入らない。私の心はどうやらもう此処にはないようだ。
 何故こんなに心が空っぽなんだろう?
 私にも判らない・・・・。

 どのくらいの時間がたったのだろう? 何度となく繰り返し意味のない思考を繰り返す私は不意に視界の端に輝く光を見た。
 見るとそこには小さな刃がテレビ画面から漏れる光を反射して微かな輝きを放っていた。まるで何かを主張するように・・・。
 私は何気なくそれに手を伸ばした・・・。
 


「悪いけどさ・・・、俺・・付き合ってる奴がいるんだ。三島も知ってるだろ?2組の黒崎加奈・・・」
 私はそう告げられた瞬間、何故か悲しくはなかった。ああ、残念・・・、と思いはしたが、それは恋に破れた乙女心としては少々物足りない悲しさだった。
「そっか・・・、加奈ならしょうがないね・・」
 なにがしょうがないのか自分でも判らないが私の口から勝手に言葉が零れ落ちる。
「ごめんな・・」
 そう彼は謝る。とてもばつの悪そうな表情で・・・、そんな顔をされると何だかこっちの方が居た堪れなくなる・・・。
「ううん、そんなに気にすることないよ・・。それじゃ・・」
「あ、三島・・・」
 私は続く彼の言葉を待たずに駆け出していた。失恋もこれが初めてじゃあないし、彼のことも思い詰めるほど好きだったわけじゃない・・。少し心がチクチクするけど、この傷も時間が癒してくれるはずだ・・。
 そう・・、大したショックじゃないよね・・。
 でもどうしてか・・・、悲しくはないはずなのに私は訳もなく走り出していた。
 
 胸の奥でピシリと微かな・・・音が聞こえた。

 気だるい午後を過ぎた夕下がりの頃、
 私は駅前のマックで彼を見た・・・。仏頂面で頬杖をついて誰かを待っているようだ。私は未練たらしく彼の横顔を見た。そこそこの容姿だとは思うが、美形っていうと言い過ぎのような気がする。私は彼の何処が好きだったんだろう・・・・。
 夕下がりの街角は夏の終わりらしく、道行く人のファッションや街路樹の少し色あせた緑に微かに秋の気配を感じることができた。 
 私はぼんやりウィンドウの向こう側の彼の姿を眺めながらため息を一つついた。
 今更、振られた男に見惚れてどうする?
 そんな嘲る声が聞こえてくるようだ。私は心の中でさよならと囁き、その場から立ち去った。
 また胸の奥でピシリと微かな音が聞こえた・・・。

 いつもの帰り道、公園のベンチで寄り添い抱き合う恋人達を見た。
 好ましい雰囲気で暗がりの中、重なり合う影がなんだか私を小馬鹿にしているように感じて・・・、私は転がっていた空き缶を宙高く蹴飛ばした。
 微かに肌寒くなってきた外気が私の髪をそっとさらっていく。いつの間にか小雨が降り始めていて・・・、また胸の奥で微かな音がピシリと聞こえた。


 帰宅した私にメールが届く。父からだ。
 <今日は遅くなるkら晩飯は食べてくる>
 それだけの文章が携帯のディスプレイに表示される。ふふっ、父さんまた打ち間違ってる・・。家は母親がいないから食事はだいたい私が作っている。不慣れな手つきでメールを打つ父の姿を想像して微かに笑みをもらす。
 でも今日は晩御飯、一緒に食べたかったな・・・、振られたこともあり、どうやら私は少し落ち込んでいるらしい。いかん、いかん、こういった時はさっさと寝るに限る。
 たいして食欲もなかった私は軽く昨日の残り物をつまむとシャワーを浴びて、すっきりすると部屋のベットの上に大の字になった。
 こうして天井を見上げるとそんなに広くもない我が家が急に広くなったみたいに思えてくる。しばらく天上をじっと見つめていると次第に視界がにじんでいく。どうやら私は泣いているらしい。
 はは・・、こりゃ重症だ・・・。
 顔をシーツで拭くと鼻孔を洗いたての髪の香りがくすぐる。最近変えたシャンプーの香り・・・、気に入っていたはずなのに何故か今日は鼻につく・・。
 やだやだ・・、どうしてもマイナス思考に陥ってしまう。こういう時はさっさと寝るに限る。
 そんなに眠くもなかったが無理やり布団を被ると目を閉じる。そして私はこの世界から逃避するようにまどろみに落ちていった。
 微かな音がまたピシリと胸の奥で聞こえていた・・。

ーTwoー

 その場所が何所かはわからない。ただひとつ言えることは現実じゃないだろうということだけ・・・・。
 そこでの私は好きだった彼に告白されてOKし、夕下がり駅前のマックで一緒に楽しくだべり合って時間を潰し、薄暗い公園で少し月明かりの下、照れながらも彼と初めてのキスを交したから・・・。
 家に帰ると父さんと母さんが迎えてくれて母さん特製のシチューを囲んで三人で温かい時を過ごしていた。

 望んでいた通りの幸せな風景・・・、でもこれは・・・夢だ・・・。
 夢を見ている間は自覚などないというけど、本当はわかってる・・・。この場所は仮初めの楽園で、目を覚ませば泡のように消えてしまうことを・・・。

 夢の世界に浸りきっている私がいる一方でそれを見ているもう一人の私がいる。
 この世界では同時にいくつもの私が存在している・・・。

「悲しい?」

 ふいに声が聞こえた。どこから聞こえたのか辺りを見渡すけれどそれらしいモノは見えない。

「ここだよ・・・」
 
 どこ・・?、そう思った瞬間、唐突にそいつは私の目の前に現れた。

「ひゃっ!!」
 
 私は小さな悲鳴を上げるとパタンと尻餅をついてしまった・・。
 そんな私の様子を見てくすくすと笑う。
 そいつは奇妙な格好だった。すっぽりと長い・・・、なんというかよくアニメなんかに出てくる魔法使いとかが着ているような・・全身を覆う灰色の服を着ていて・・・、しかも決して背の高いほうじゃない私のさらに半分ほどの身長しかなく、服を着ているというより着られているといった感じだ。

「あなた・・誰?」

 おそるおそる私が尋ねるとそいつは被っていたフードをとり、顔をあらわにした。

「僕は『タソガレ』まどろみを旅する者・・。初めましてお嬢さん・・」

 そう自己紹介を始めたのは美しい・・・、そうまるで氷細工で造られたような美貌の少女だった。さらされと流れる髪は黒い艶を帯び、整った双眉の下には見る者が吸い込まれてしましそうな漆黒の瞳が輝いている。全体の印象としては人というより物語の世界から抜け出した妖精とか神様とかのようで・・・、私は少し気後れした。

「あんまり恐れる必要はないよ・・、別に君をどうこうするつもりはないからね・・」

 口調は大人びているが、その姿は子供のそれで、何だか奇妙な違和感がある。

「私は三原澪。しがない高校生よ」
 
 私は対応に困り、取り合えず自己紹介する。

「へえ・・、驚いた。君は自分が何者であるかちゃんと認識しているわけだ」

 少しも驚いた表情を見せずにそう『タソガレ』とやらは言う。どういう意味かな?

「普通、ここに来る者の多くは自己を認識していないんだ。何故ならここは存在同士が溶け合う世界だからね・・・。この世界においては主観はあっけなく客観を凌駕してしまう。例えば・・・・」
  
 そういって何かを空中に描くような仕草をする。するとそこには幸せそうな笑顔で家族と談笑している私の姿が映し出された。
 そのスクリーンの中の私は有り得る筈のない風景の中で幸せそうな笑みを浮かべている。
 私が心の奥で渇望してやまなかった家族の風景・・。
 暖かく懐かしい、けれどもう二度と手に入らないもの・・。
 思わずスクリーンに手を伸ばすが、私の指が触れた瞬間それは泡のように消えてしまった。
 頬を一滴の涙が伝う・・・・。

「幻想さ・・・、有り得るはずのないね・・。でもここにいる間はそれが現実となる。そしてそのことに一切疑問を覚えない・・。スクリーンの中の君のようにね・・」
 
 表情を変えないまま、『タソガレ』は呟くようにいった。その態度がひどく私の勘に触る・・・。

「そう・・・、これはただの夢よ・・・。そんなことは判っている・・、判っているわよっ!!だけど私達はこんな夢を見なければ生きていけない・・。私達は夢見ることを止められるほど強くなんかないっ!!」

 私は多分泣いていたのだろう・・。嗚咽をもらしながら『タソガレ』に自分の悲しみをぶつける。
 そんな私をじっと漆黒の瞳で見つめる『タソガレ』のその氷細工の如き秀麗な顔は相変わらず無表情なままだったが、何故か私には『タソガレ』が微かに微笑んだような気がした。

「君は・・・・、いい人だね・・。君みたいな人がいるからこそ、僕の仕事も遣り甲斐 がある・・・。澪・・気を付けて・・・。現実は夢に深い影響を与える・・・。そして多くの人は認識してないけれど夢も現実に影を落とすときがある。君の近くに影が見える・・。気をつけて・・・・」

 『タソガレ』は相変わらずの無表情のまま言葉を紡ぎ、徐々にその姿が薄れていく・・。

「覚醒が近いんだね・・・、君とまたここで会えることを願っているよ・・・。そう・・そこではなくここでね・・・・」

 その言葉を聴きながら私は意識を目覚めさせた・・・・。

ーThreeー

 目が覚めるといつもの部屋にいつもの私がいた。普段、おぼろげな夢の記憶も今朝に限ってはっきりと覚えていた。奇妙な夢を見たもんだ・・・。夢は無意識が見せるものだというけれど、私のどんな意識下の願望があんな夢を見せたのだろう?
 そんな事をぼんやりと考えながら私はいつも通りに学校へ行く支度を始めた・・・。

 制服に着替え、部屋を出ると台所の方からなにやら良い匂いがしてきた。これはお味噌の匂いだ。どうしたんだろ?父さんが朝食を作るなんて珍しい事もあるもんだ・・。
 父と二人暮しの私だが、不器用な父は家事の類は一切苦手で料理もほとんど私が作っている。偶に思い立ったように父が作る時もあるが、たいてい酷いできで食材が無駄になるだけで終わるのが常だった。
 だからあまり期待もせずに台所に顔を出した私は台所で朝食を作っているその後ろ姿が父ではないことに驚いた。父は食卓について新聞を見ている。じゃあ、そこに立っているのは誰だろう?父の知り合いかな?もしかして再婚相手が見つかった?でもならいくら何でも父から一言ぐらいあるはずだ・・・。
 少しばかり、混乱する私だったが取り合えず椅子に座り、父に小声で「誰?」と尋ねる。
「なに言ってるんだ、澪?」
 父は新聞から顔を上げ、いかにも胡乱げにこちらを見やる。・・と「出来たわよ」という声とともにその人物が振り返る。
 どこかで聞いたことある声だ。何故か懐かしいような・・・・。振り返った人物を見た瞬間、私はまだ自分が夢の中にいるのかと思った。
「母さん・・・・」
 そうその姿は5年前に死んだはずの母親のものだった。

 突然目の前に現れた母はさも当たり前のように私達と会話をして、父もそれに何の疑問も差し挟んでいない様子だった。私はというと終始混乱してどう対応したらいいものかわからずにいた。
 朝食を終え、その場から逃げるように学校へ向かう。だけど玄関を出る時の「いってらっしゃい」の声は懐かしくも暖かい母のものだった・・・。

 いったい何がどうなっているのだろう?これは夢なのだろうか?でも夢にしてはリアル過ぎる。母は5年前、事故で死んだはずだ。それは確かだ。私はこの目ではっきりとその場を見ている。だけど現実に昨日まで居なかったはずの母は当たり前のようにそこに居る訳で・・・・。
 混乱した思考のまま、私が教室に入ると彼と目が合う。彼がにこやかに「おはよ」と挨拶をし、私もぎこちなく笑みを返す。
 そうだ・・・、朝の衝撃的な出来事で忘れていたけど、私は昨日、彼に振られたんだ・・。
 でも彼はいつもと同じように私と挨拶を交わす。失恋の傷が癒えるのはまだ時間がかかりそうだ。正直、今彼と顔を合わすのは辛かった・・。
「三島、どうしたんだ?暗い顔して・・」
 そう彼は声をかけてくる。当たり前のように・・。私は小さな憤りを感じた。昨日振った女の子にそんなに風に軽く接するなよ・・。こっちはまだ痛いんだ・・。
 とにかく今は顔を合わせたくなかった私は俯いたまま無言でいた。
「どうしたんだ?気分でも悪いのか?」
「うん、ちょっと・・」
 なんで今更、優しくするの?あなたにはちゃんと付き合ってる子がいるでしょう。
 喉の奥まで出掛かった言葉を飲み込み私は俯く。俯くのは嫌いだけど今の私はそうするしかない・・。まだ、君の前で笑えないよ・・。
「そうか・・・、じゃあ仕方ないけど・・、放課後・・その・・、ちょっと話があるんだ。付き合ってくれないか?」
 そう告げる。どういうこと?君は私を振ったんだよ・・。それなのに・・。
「用事があるならいいんだけど・・」
 申し訳なさそうな彼の声。
「別に・・、用事はないけど・・・」
 反射的にそう言ってしまう。基本的にこういう風に言われると断れない性質なのだ。我ながら損してると思う・・。
「そうかっ!じゃあ、放課後、待ってるから」
 嬉しそうに声を弾ませ、私の肩をポンッと叩くと彼は自分の席に足早に戻っていった。
 断るタイミングを逸してしまった。はぁ・・、それにしてもほんとに何のようだろ?
 私は今日起きた出来事だけで一杯なのに放課後、先日失恋したばかりの相手と顔を合わせなきゃならないのか・・・。そりゃあ、振られたとはいえ彼を好きだった気持ちは色あせずにまだ心の中にある。でも・・、いやだからこそ、今は彼と話したくなかったのに・・・。
 ピシリと心の奥で微かな痛みの音が聞こえた・・。


「三島のこと好きなんだ・・」
 放課後、夕日が地平線に落ちる直前の時刻、茜色に染まった公園でその言葉が透き通ったように耳に届いた。
 なんで?あなたは私を昨日振ったじゃない、なのに・・・。そういった疑問が湧くはずなのに私の胸はその言葉に反応し高い鼓動を鳴らし始めた。
「な、なんで・・」
 精一杯、声を絞り出す。
「俺、気付いたんだ自分の素直な気持ちに・・・、その嫌じゃなければ、俺と付き合ってくれないか?」
 そう言って彼は私の方に近づく。手を伸ばせば抱きしめられる距離・・。
「私で・・、いいの・・」
「三島以外は考えられない・・」
 じっと私を真摯な瞳が見つめる。夕焼けが包み込む中、彼の顔が近づいてくる。
 私の中で何かが警鐘を鳴らす。おかしい、これは何かが違う。こんな夢みたいなことある筈がないと・・。
 だけど頭の白い靄が掛かったようにもう何も考えられない・・。
 
 そして私は彼と夕焼けの公園で初めてキスをした・・。まるで夢のような・・出来事だった。


ーFourー

 あの日から数日が経った。私はすでに母がそこに居る日常をあまり疑問に感じなくなっていた。死んでいたはずの母が突然現れた理由などもはやどうでもいい・・。今、私は幸せなのだから・・。
 そう・・、私の日常は満たされていた。学校に行くといつも好きな彼がいて、私を気遣ってくれる。放課後、ちょっと寄り道して街中を彼と一緒に歩いたり、マックやミスドによって遅くまでだべったりする。そうやってありふれた恋人同士の風景を彼と過ごして一日が終わる。別れ際、「また、明日」と挨拶する度に私は永久にこの時間が続けばと思った。
 家に帰ると父さんと母さんが出迎えてくれて家族三人で食事をする。学校の話題や最近の身近なニュースなんかで食卓に花が咲く。父も母も私も笑っている・・。忘れてた暖かい食卓、二度と手放したくない満たされた時間・・・。

 心の奥に響いていたあの痛みの音はもうしない・・。
 まどろむような幸せな時間。明日も明後日もずっとずっとこの時が変わらず続いてほしいといつしか私は願うようになっていた。

「でもその時間は偽りのものだよ・・・・、三島澪」

 いつもと同じ日常の一コマ、彼とちょうど別れた直後、家路に着く途中、そいつは唐突に目の前に現れた。
 すっぽりと長い・・・、なんというかよくアニメなんかに出てくる魔法使いとかが着ているような・・全身を覆う灰色の服を着ていて・・・、しかも決して背の高いほうじゃない私のさらに半分ほどの身長しかなく、服を着ているというより着られているといった感じの・・・。
「忘れてしまったようだね・・、僕のことを」
 そう小さい癖にやけによく通る声でそいつは言った。少女?少年だろうか?まるで氷細工で造られたような美貌をしている。さらされと流れる髪は黒い艶を帯び、整った双眉の下には見る者が吸い込まれてしましそうな漆黒の瞳が輝いている。全体の印象としては人というより物語の世界から抜け出した妖精とか神様とかのようで・・・。
「あなた誰?いきなり何よ」
 多少気後れしながらも私はその漆黒の瞳を睨み返した。
「君は今の状態に何も違和感を感じないのかい?」
「違和感?」
「そうさ、薄々は感じているだろうが、ここは君の望んだ通りの世界だ。だけど夢じゃあない。かといって完全に現実ってわけでもない・・・」
「あなた何を言ってるの?」
 私は気味悪く思いながらもそいつの言葉に耳を傾けずにはいられなかった。不安・・、そう不安だ・・。何に対する不安かは判らない・・。でも抑えようもなくそれは増大していく。
「君の望む世界はあまりにも現実に近い。だが、だからこそ君の記憶とは違う点が存在する。それを見つけるといい。それが君を救うための鍵となる・・・」
 そいつの言葉がだんだん遠くなる。ハッと気付いて見ると不思議なことに徐々にそいつの姿が霧に包まれたかのように見えなくなっていく。
「そろそろ限界だ・・・」
 そいつの声はすでにかなりか細くなっており、その姿もほとんど消えかけている。

「待ってっ!!君は誰?どうして私を知ってるの?救うって何のこと?」
 立て続けに質問をぶつけて見るがそいつは最後に

「『タソガレ』」

 とだけ言い残し完全に虚空に溶けてしまった。

 どういうこと?ここが偽りの世界・・。現実とは違う・・、私が望んだ世界・・。
 わからない。『タソガレ』・・。あいつの言った言葉はわけが判らなかったが、とにかく私の心をかき乱し、言いようのない不安を植えつけていった。

「お帰りなさい、澪」
 いつものように家に帰ると笑顔で母さんが出迎えてくれた。
「遅かったわね・・。彼とデートでもしてた?」
「ううん・・・」
「そうなの?でも今度連れて来なさいね。母さん、一度会ってみたいわ。澪の彼氏とやらに・・、父さんには内緒だけどね」
 そういって笑いかける母さん。いつもの母さんだ・・。でも何故か不安は止まらず、増大していく。
「どうしたの?澪。顔色悪いわよ、大丈夫・・」
「うん、大丈夫。ちょっと気分が悪いだけ・・、部屋で休んでるからご飯ができたら呼んで・・・」
 心配げに声をかけてくる母さんへそう告げると私は自分の部屋へと向かった。


 私は部屋に入ると鞄をベッドの上にほおりやると鏡台の前に腰掛けた。幼いころ母から買ってもらった古いアンティークで引き出しがついているやつだ。
「ひどい、顔・・・」
 鏡に映る私の顔は酷いものだった。まるで生気というものが感じられない。寝たきりの病人のような顔をしている。

<君は今の状態に何も違和感を感じないのかい?>
<その時間は偽りのものだよ>

 帰り道であったあいつ『タソガレ』の言葉が脳裏に甦ってくる。そして言いようのない不安は増大していく・・。
 違和感?偽り?ならここにいる私はなんだというのだろうか?偽りの世界とやらに生きる私は・・、やはり偽りの存在なのだろうか・・・・。
「そんな馬鹿なこと・・あるはずないよ・・・」
 声に出して呟いてみるが不安は消えない。思考は沈んでしまう。こんなの私らしくないじゃないか・・。そう思うけどどうしようもなく私は暗い想念の虜になってしまったようだった・・・。
 どのくらいそうしていただろう・・・。窓の外を見るといつの間にか日が沈んでいた。暗くなった部屋の鏡台の前に腰掛けたまま、何気なく私はその引き出しを開けてみた。

 無意識の行動だったが、その行動は私を覚醒させた。引き出しの中にあるはずの物がなかったのだ。それは大切な物・・・とても、とても・・・。

 そうだ・・・。父さんからあの日、母さんが死んだ日に貰ったオルゴール・・・。そうだ・・。辛い・・、ひどく辛い記憶・・。どうして私は今まで忘れていたのだろう?不器用な父さんが作ってくれた手製のオルゴール・・。泣き疲れた私をそっと包んでくれたあの音色・・忘れてた・・・。

 そして私の胸の奥で小さな痛みの音が再び響いた・・・。

 その瞬間、私は思い出した。彼に振られた記憶や母さんが死んだ記憶、それに様々な忘れたい痛みを伴う記憶の数々を・・・。

「いったい・・私は・・・」

 記憶を取り戻した私は現在の異常な状況を認識した。

《永遠にまどろんでいればよかったのに・・・・》

 目の前から声が聞こえる。私は息を呑んだ。鏡に映った私自身がしゃべっている。

「あなたは・・誰?これはあなたの仕業なの?」

《そうだよ、私の仕業・・。でも私はあなた・・、三島澪・・・》

「ふざけないでっ!!どうして、どうしてこんな・・」

《あなたが望んだから・・・》

「え?」

 目の前の私は薄く笑みを浮かべながら語る。

《ここはあなたが望んだ、あなたための世界。此処では現実の痛みはない・・、永遠に安らいでいられる・・》

「で、でも元の世界は・・・私が元いた世界は・・・」

 くすくすと笑い声が鏡の中から聞こえてくる。

《あなたが元いた世界・・・、それはこんな世界?》

 鏡の中の私がそういうと周囲の風景にまるでスクリーン映し出される映画のように様々な光景が浮かび上がる・・・・。
 
 小学生の頃、可愛がってた犬が交通事故で死に、父が埋めてくれた墓の前で一晩中泣きじゃくった・・。

 それまで仲良かった友達が急に親の都合で遠くに行ってしまった。その日も私は悲しくて泣いた・・・。その子と離れ離れにならなければならない辛さでしばらく何も考えられなかった。

 中学校に上がってすぐ、母さんが事故にあった。私が病院に駆けつけた時にはすでに母は目を永久に閉じて、何度呼びかけても二度と微笑みかけてはくれなかった。
 私は一番大事な人を失った。悲しみで胸は張り裂け、理不尽すぎる運命とやらを呪い、母さんが居ない世界なんか無くなればいいとつよくつよく思った・・・。

 そして先日、本当に大好きだった彼から振られた。自分では精一杯強がっていたけど、心の痛みはもう限界だったんだ。彼が「ごめんな・・」と呟いた時、私の心はその痛みに耐え切れずはじけてしまったのだろう・・・。

《どう?現実は痛みに溢れているよ・・・。でもあなたが望むこの世界に居ればあなたは悩むことも苦しむことも無い・・・。永遠に幸せでいられる・・・》

 私が私にそう囁くように語り掛けてくる。その言葉はとても甘美な香りで私を惑わせた。
 そうだ・・、痛みで溢れた世界は辛すぎる・・・。この世界にいれば、私は幸せでいられる・・・・。偽りでもいいじゃないか?今、私が幸せならばそれで・・・・。

《迷うことはない・・、澪。私を受け入れなさい・・・。そうすればあなたは痛みの無い世界で永遠にまどろんでいられる・・・・》

 そうだもう一人の私の言う通りだ・・・・。迷う必要なんてない・・・。
 そして私は鏡の中の自分に触れようと手を伸ばした・・。

 だが、

 私がまさにもう一人の私に触れようとした刹那、ひどく懐かしい音が聞こえてきた。
 どこか儚げで頼りないその音は引き出しの奥から聞こえている。
 私は反射的に伸ばしていた手を止め、その音源を探ってみた。すると引き出しの奥から小さな古びたオルゴールが姿を見せた。

《どうしたの?早くこちらに来て・・。そうすればあなたは永久に心の痛みを感じることはないのよ・・・》

 相変わらず、鏡の中から抗えぬ声が聞こえるが、何故だろう?私は・・私の心はその声を振り切って古びたオルゴールにそっと触れた。

「あっ・・、暖かい・・・」

 そっと触れた途端、古びたオルゴールから白い光が溢れ、私を包んだ。そして私の心の中にもう一度、過ぎ去った日々の痛みが甦えり、その時々の光景が映し出される。だが、今度の光景はさっき見たのとは少し異なっていた・・。

可愛がってた犬が死んだ時、いつまでも部屋の隅で泣いていた私・・。けれども、そっとそんな私を母が抱きしめて一緒に寝てくれた。母の温もりは私の悲しみを溶かしてくれた。

 「さよなら」の後に「離れ離れになっても、ずっと友達だよ・・」と目に涙をためながら言ってくれたあの子の優しさ。決して忘てはいけない大切な絆・・。

 母が死んでずっと塞ぎこんでいた私に父さんは不器用な手つきでオルゴールを作ってくれた。母と私が好きだった曲だ。自分もとてもとても辛かったはずなのに私のために作ってくれたそのメロディはどんな音楽よりも心にしみ込んで私を癒してくれた。

 そして先日、本当に大好きだった彼から私は振られてしまった。だけど、私が彼を好きだった気持ちは誇るべきものとして今も此処にある。
 とってもとっても痛く、辛いけど私は彼を好きになって良かった。
 だって私が彼を好きだった気持ちはきっとキラキラと色褪せることのない輝きを放ち、確かに私の中に存在し続けるはずだから・・。
 思い出してまた、チクリと痛むこともあるだろう・・・、でも私はそうやって数え切れないほどの痛みと共に私にとって大事な想いも胸に刻んでいる・・・。

 痛みだけじゃない・・・。きっとそうだ・・。私は目の前の私自身に向かって叫んだ。

「私は痛みのない世界なんかいらないっ!!」

 叫んだ瞬間、私の望んだ世界は音もなく壊れた・・。

ーFiveー

 気が付くと私は自分の部屋にいた。
 暗い部屋のTVからはアナウンサーの声が聞こえ、部屋に備え付けられたコンポからは軽快なミュージックが流れている。
 私は夢でも見ていたのだろうか?
 ふと、時計を見るとAM2:00と表示されている。
 ずっと眠っていたような気もするがそうでもないらしい。意識がはっきりしてくるにつれ、私は部屋が異様にちらかっていることに気付いた。暗くてよくは見えないが、周りには衣類や本にCDなど、様々な物が散らばっている。
 なんで?こんなに散らかってるの?
 私は記憶を探り起こしてみるが、どうもよく思い出せない。
「片付けなきゃ・・・」
 呟きつつ散らばっている本の一つに手を伸ばそうとした時、初めて私は自分が手に何か持っているのに気付いた。
 暗くてよく見えないのでそいつを顔に近づけてみる。と、キラリと輝きが反射した。どうやら包丁のようだ。
 なんだ包丁か・・・・って包丁?
 
「ひゃっ!」
 私は驚き反射的に包丁を放りやった。クルクルと宙を回りながら私の手から離れた包丁は飛んでいき・・、虚空のある一点でピタリと停止した・・。

「え?」

「覚醒して早々、こんなものを投げつけるとは君はずいぶんと物騒だね」
 そう空中から声が聞こえる。その声を私が認識すると同時に包丁が音を立てて床に落ち、代わりに何者かが現れる。
 目を凝らすと暗くて見えないはずなのに何故かそいつの姿が次第に鮮明に見えてきた。そいつ妙な格好だった。すっぽりと長い・・・、なんというかよくアニメなんかに出てくる魔法使いとかが着ているような・・全身を覆う灰色の服を着ていて・・・、しかも決して背の高いほうじゃない私のさらに半分ほどの身長しかなく、服を着ているというより着られているといった感じの・・・。


「タソガレ?」
 私はそう呼びかける。何故この美貌の少女をそう呼びかけたかは自分でもわからないが、この子は『タソガレ』だ。それだけははっきりと判る。

「ふむ、どうやらまだ完全に意識が統合されていないようだね。まあ、無理もないか・・・、どれ・・」
 無表情のまま小さいがよく通る声でそう言うとタソガレは私の方に手を差し出した。すると細い手に何か黒い靄の塊が出現する。タソガレの手の中でだんだんそれは小さくなっていきやがて完全に消えてしまった。

「あっ・・・」
 黒い塊が消えた瞬間、私の記憶は完全に戻った。そうだこの子の『タソガレ』は夢で会った。そして多分・・・。

「タソガレ、あなたが私を助けてくれたの?」
 確認するように尋ねる。だが、それに対して静かに首を振るとタソガレは唄うように言葉を綴る。

「違うよ・・・、澪。君を助けたのは君自身だ。確かに僕の力を使いはしたが、君の心が選択しなければ僕は力を振るうことは出来なかったし、君が望む世界ではなく今この現実に存在することを選んだから君は飲み込まれずにすんだ・・・」

 『タソガレ』は宙に浮いたまま無表情で淡々と語る。第三者から見れば異様な光景だろうが、私はこの事態をすでに完全に受け入れていた。

「飲み込まれずに済んだって・・いったい何だったの?私・・よく覚えていないんだけど・・・・」

「一言でいうならあれは君自身の中にある『痛み』が具現化したものさ・・、僕らは『ゆらぎ』と呼んでいるがね・・・」

「『ゆらぎ』・・・」

「そうさ、生きていく限り誰もが重ねていかなければならない『痛み』、それが積み重なりある一定の量を超えると『ゆらぎ』はやってくる。大抵は憑いた人間に悪夢を見せるぐらいが関の山なんだが・・・・、君の中の『痛み』が大きすぎたんだろう・・・。『ゆらぎ』もそれに比例して強大になり、君の逃避衝動と融合して現実世界に影響を与えるほどの力を得てしまった」

 淡々と話す『タソガレ』を前にして私は急に怖くなった。

「じゃあ、もしあのまま私が飲み込まれていたら・・・」

「現実世界の君は自分自身の存在を消していただろうね・・・。こいつで」

 といって床に落ちている包丁を指し示す。私はその鈍く輝く刃を見て思わず身震いした。

「最悪の場合、『ゆらぎ』に憑かれた者は自分の精神を『ゆらぎ』が作った世界に残したまま、現実の肉体を壊してしまう。君は類まれなる意志力のおかげで助かったわけだ・・」

「じゃあ、もしまた私の心が『痛み』で溢れてしまったら同じことが起こるかもしれないの?」

 恐怖が込みあがってくる。今回は何とか直前で回避することが出来たけど、またこんなことが起きれば今度こそ私は・・・。

「まあ、そうだね・・」

 相変わらずの無表情で『タソガレ』は言う。私の胸が不安感でいっぱいになる。

「私は・・・・、私は弱い・・・。自分が嫌になるくらい・・。だから自信ないよ。次また、あんな風に望む世界を見せられたら、それが例え偽りの世界だとしても私は受け入れてしまうかもしれない・・」

 いつの間にか私は泣いていた。そうだ私は弱い人間だ・・・。すぐに痛みや苦しみから目を反らし、なるべく自分が傷つかないように自分自身にまで嘘をつくような・・・。

「不安かい、澪?でも心配ない・・」

「あっ・・」
 目を上げると宙に浮いていた『タソガレ』がほんの一呼吸ほどの距離に近づいていた。
 その指先がそっと私の額に触れる。すると、心の中に温かい何かがしみ込んでくるような不思議な感覚が私を包み込み・・・。
 周囲にスクリーンに映し出される映画のようにまた、私の記憶が投影されていく・・。 それは辛くて悲しい記憶もあれば、嬉しかったり楽しかったりした記憶もあった。

 自分の記憶を見ながら私は心の中の不安が消えていくのを感じていた。

「君はもう自分の痛みに負けることはない・・・。君は自分の中にそれよりも強いものがあることを知ったから・・・」

 『タソガレ』はそう呟くと触れていた指を離す・・。

「そうだ・・、そうだね・・。どんなに大きな『痛み』があっても私の中にはいつだってそれに負けない『想い』がある・・・」

 そっと両手を胸に重ねてみる。そうだ・・、この小さな胸には何者にも負けない『想い』がいっぱい詰まってる。この『想い』があればどんな『痛み』だって怖くはない・・。

「では、僕の仕事は完了した。このまま消えるとするよ・・」

「待って、タソガレっ!!」

 再び空中に浮かび上がり、消えようとする『タソガレ』を私は必死で呼び止めた。だが、その姿は霧が晴れていくように消えていく・・。

 待ってよ。まだ私、あなたにお礼も言ってない。それに私はあなたともっともっと話がしたい・・。様々な言葉になりきれない想いが胸の中にあったが、結局、私は一言だけ最後に

「タソガレっ!!私たち、また、会えるよね?」
 
 とだけ言った。

 私の言葉を聞いて、消える直前『タソガレ』は笑いとも悲しみともつかない奇妙な表情を微かにして見せたが、とうとう最後まで何も言わずに消えてしまった・・。

 そうして私は日常に回帰した・・・。





ーEpilogueー

「父さん、こっちだよ」
 私の呼びかけ返事をしながら父さんはゆっくりと歩いてくる。閑静な住宅街だけど、この時間帯は各家庭から食事の支度をしている音と匂いが感じられる。
 私はこの日、久しぶりに父さんと一緒に出かけていた。今日は特別な日・・、母さんの命日だから・・・。
 
夕日が完全に地平線の向こうへと消えてしまう、ほんのわずかな間、世界は白でも黒でもない赤に染まる。
 私はこの時間が好きだ。幼い子供の頃、私は地平線の向こうへ落ちていく夕日をずっと眺めながら様々な物語を空想した。
 それはどれも荒唐無稽で馬鹿馬鹿しくて稚拙な物語で、よく母さんに自分が作った物語を聞かせていたけど、今考えるとかなり気恥ずかしい。でも母さんは私の稚拙な物語を優しい笑みのまま静かに聞いてくれた・・。
 
 そろそろ日が落ちようかという時刻、私の好きな夕焼けが街路樹を染める頃、私は父さんと二人並んで歩きながらそんなことを思い出していた。
「もう五年経つんだな・・・」
 父さんがぽつりと呟く・・。私は「そうだね・・」と応える。そうだ・・、母さんがいなくなってから五年も経ったんだ・・・。そう思うと心の奥がズキズキと痛む。それはあの頃に比べたら微かだけど、まだ胸の奥に残った小さな痛みだった。
「澪、その・・淋しくはないか?」
 歩きながらまた、父さんが呟く・・。私は応える代わりに父さんの手をぎゅっと掴んだ。
 ちょっとだけ驚いた顔をする父さん。くすりと笑って、父さんの腕に手を絡ませる。

「大丈夫だよ・・、私には父さんがいるもん」

 とびきりの笑顔でそう告げると、父さんは優しい笑みを浮かべ、「そうか・・」と呟いた。交わした言葉はそんなに多くなかったけど、父の温もりは私の記憶にある母の温もりと同じように心地よかった・・・。

 夕焼けに染まった街角を父さんと二人で歩く。それは当たり前の日常の一コマだけれど、大切な一時・・・。歩きながら暗くなる前の鮮やかな赤に染まった空を見る。それは私の一番好きな昼と夜の境目にある綺麗な世界・・・。

 そして・・・、
 
 不意に赤く染まった空を何かが横切った気がした。

「タソガレ?」

「どうした?澪?」

「あ、ごめん。なんでもないよ」

 父にそう返しながらも私は自分の口から出た言葉を心の中で反芻していた。
 タソガレ・・、タソガレ・・。そうだ・・、あの時、私を助けてくれた不思議なやつ・・。まどろみを旅する者・・・・。

 心の中にあの不思議な姿が浮かび上がる。そうだ、今確かにあいつが・・・。

 私はすぐ辺りを見回してみたが、それらしい姿は見当たらない。

 気のせい?いや、違う・・。私は確信してた、今微かに見えたのはあいつの姿に違いない。

 それは昼と夜の間に少しだけ姿を見せる幻、まるで虚構の神話のような不確かな記憶だけど、私の小さな胸に宿った『想い』にあいつの、タソガレの姿はちゃんと刻み付けられている・・・。

 だから私は真っ赤に染まった黄昏時の空に向かって呟くように言った。

 ありがとう、と・・・。


                    <了>